範読の程度
国語の教員にとって文章を生徒に読んで聞かせることは大事です。そして、私なりのこだわりをもっています。
いつも悩むのは小説の朗読です。朗読にはかなりの割合で読み手の解釈が入ります。これを過度に行うと生徒は自由な解釈ができません。逆に単なる棒読みはつまらないし、生徒の興味を繋ぐことができません。その中間を目指す必要があるのです。
これはこれからも私にとってのテーマになります。
坂崎 重盛: 東京文芸散歩 (角川文庫)
作家たちによって描かれた東京の風景。それはかつての町の姿を写したアルバム写真のよう。
矢部智子: TOKYO KOEN SAMPO 東京公園散歩 (P-Vine BOOks)
東京にも実は多くの公園がある。地面や池の水面を見るだけで、癒されるなにかがあるもの事実。本書は写真を中心とした公園案内である。
江戸歴史散歩愛好会: 東京・江戸散歩 おすすめ25コース (PHP文庫)
東京にも名所旧跡がいっぱいある。これはテーマ別に隠れた東京の歴史スポットを案内した本である。
国語の教員にとって文章を生徒に読んで聞かせることは大事です。そして、私なりのこだわりをもっています。
いつも悩むのは小説の朗読です。朗読にはかなりの割合で読み手の解釈が入ります。これを過度に行うと生徒は自由な解釈ができません。逆に単なる棒読みはつまらないし、生徒の興味を繋ぐことができません。その中間を目指す必要があるのです。
これはこれからも私にとってのテーマになります。
帰国子女の中には、漢字が十分に読めずに苦労している者がいます。そういう生徒にとっては日本語は話せるけれども読めない不思議な存在らしく、一種のバリアになっているようです。
それでも学習を続けているうちに急に分かってくることがあるらしく、その様子はまさに氷解という言葉が相応しいものです。満面の笑みとともに分かったというのです。
帰国子女の日本語支援の現場には国語教育の基礎があるようです。普段はカリキュラムをこなすことで精一杯ですが、この休みにはこの問題について考え直してみたいと思います。
震災以降、各所で自粛ムードが高まっています。節電などの必要性は高いのですが、あまりにも度が過ぎては活気が失われてしまいます。やるべきことは何か。いつも優先順位を考えなくてはなりません。
中でも教育に関することについては規模縮小はあってはなりません。節約するべきことはあるにしても、教育活動そのものを衰退させるべきではないでしょう。
私は教育現場に身を置く者として、いままで以上に授業に力を入れていこうと思います。
中学生に内田樹氏の『日本辺境論』の一部をとりあげて話しました。そのなかに日本人が他の国民に比べてもつすぐれた能力として、「先駆的に学習する意味を知る力」があるという話がありました。何かを学ぶとき、私たちは学習の意義や効果的な学習法を考えてから学ぶというイメージがありますが、実はそうではないのだそうです。学ぶ価値や実用性などを検討することなく、直感的に学ぶ必要性を考えて、すぐに学びの行為に移行することが出来ること。それこそが日本人が他国民とくらべて発達した能力だというのです。
確かに学習は自分にとって必要だという理屈抜きの感覚が得られた時に熱中できます。逆に、これをやればいいことがある。例えば受験に有利だとか、金儲けできるとかいう話は意外にも学習動機にはなりにくい。たとえ始めても長続きしない気がします。
筆者は日本人が学習内容の検討を飛ばして学習行動に移せるのは、日本にはその余裕がなかったから、つまり、日本が辺境だったからだといいます。辺境性については大いに論じることが必要ですが、この「先駆的に学習の重要性を知る力」の論については私は概ね賛成します。
ようするに学習することに対する切実な思いが現代の日本人は欠けつつあるというのでしょう。
「~じゃないですか」という言い方はすっかり定着している。文法的には何の問題もないのだが、その使い方に関してはかなり特徴がある。話者は予め確信している意見があるが、それをそのまま言わず相手に一度確認させるという段階を踏むのである。
「あさって会議があるじゃないですか。それって準備が大切じゃないですか。あなたと私が担当じゃないですか。そろそろ資料を作っておかないといけないじゃないですか」
ここまでのことはないが、要するに自分の意見を朧化する気持ちが根底にはあるような気がする。しかし、これも繰り返されているうちにさまざまな用法が生まれている気がする。
一つには、自分の意見に対する自信のなさを表現する方法であるということだ。相手に伝える準備ができていない、いわば草稿段階の意見を相手にぶつける際に「じゃないですか」はとても便利だ。断定していないわけであるので、かりに相手から間違いを指摘されてもうけながす余裕がある。最初から逃げを含んだ意見表明といえるのだ。ある意味これはツイートのような独りよがりの表現である。
また別の見方をすれば、これは一種の先制攻撃的な論法ともいえるだろう。「じゃないですか」は本来、相手が同意することを前提に話されており、反論を想定していないことのほうが多い。このくらいは理解していますよね、このくらいのことは察してくれますよねといった最初から相手の反応をある程度決めてかかった表現なのである。
この表現の不思議なのはあまり抵抗感がなく自分の表現法に入り込んできて、いつの間に使ってしまうということであろう。
「私って、きれい好きじゃないですか」
とほとんど初対面の相手から言われると非常な違和感を覚えるが、
「日本人って几帳面じゃないですか」
になると、なぜかすんなりと入ってしまう。自分の意見を自信なげに、しかも反論をたくみに避けて話す表現だ。私は時々自分でもそれをつかってしまった後で、そこはかとない違和感を感じるのである。
今日からセンター試験が始まります。この試験は基礎的な学力を試す目的で作られており、高校2年までで教える内容がほとんどだと思います。
ならばセンター試験は11月に実施してもいいのではないでしょうか。いまの1月中旬という設定は天候の影響をあまりにも受けやすく、降雪地域には明らかに不利です。インフルエンザ流行の可能性も大きくリスクが多すぎると思います。
11月ならば3年の課程の半分は終わっているし、上記のリスクは軽減できます。連休を外して設定すれば観光客との関係もクリアできます。
どうでしょうか。
国語の授業で一番大切なのは思考力の養成であるとはよく言われています。そして私もそう思います。しかし教育の現場に立ってみると実行するのはなかなか難しい。
みんなで話し合ってみましょうといった展開にして生徒に意見を言わせるとそこそこの反応があることもあります。少しでも気のきいたことをいう生徒がいると、教員はついそれに満足してしまってまとめに入ってしまうことが多いのです。少なくとも私はそんなことが多い。
しかしそこで発表される内容は多くは上澄みであり、本質に迫ることは少ない。かりに本質に迫る問題が出てくると、それを短い授業時間内で展開させていくことは難しいのです。だから、教員もつい「討論もどき」で終らせてしまおうとする。予定調和的展開なのです。
私は参加型授業の位置づけを、生徒が参加意識をもち主体的に問題に当たったという印象を持たせるということ・・・もっとやさしくいえば、自分で考えたつもりにならせること・・・くらいに考えていました。一方通行で知識が素通りするよりはいいのかと。
しかし、これからはもう少し上(?)を目指したいと思い試行錯誤しています。
動詞「違う」に接続助詞「て」を接続すると文法どおりならば「違って」になります。違うはワ行五段活用動詞であり、「て」につくときは連用形になるので音便化した「違っ」という形になるのです。古典動詞ならばハ行四段活用となり、「違ひて」となります。
ところが最近よく聞くのが「違くて」という形です。子どもことばかと思っていましたが、最近若い同僚がごく普通に話すのを耳にするようになりました。これは全国的によく見られる傾向のようです。
「違う」+「て」が「違くて」になるメカニズムは、形容詞の活用との混同という説が一番納得しやすいでしょう。たとえば「大きい」+「て」は「大きくて」であり、「く」という活用語尾が入ります。「違う」を形容詞的に考えてみると確かに、「違くて」という語形ができることになります。
そもそも動詞とは事物の動作・作用・状態・存在などについて用いられる言葉ですが、動作や作用などの動的な表現ならばともかく「違う」のような状態をあらわす動詞は、形容詞や形容動詞と共通する働きをもっているために混同が起きる可能性は十分にあるといえます。
同様な現象はこのほかにはあまり見られません。「違う」に近接する意味を持つ「異なる」が「異なくて」という形で使われた例を知りません。ただし子どもことばでは「居る」に「て」をつけた「いくて」は聞いたことがありますが、固定的な用例とは思えません。
日本語の変化と考えるべきか、誤用として糾すべきか。考えていかなくてはならない問題の一つです。
まもなく夏休みも終わります。すでに通勤は始まっているのですが、学校は授業が始まらないと、やはりいつもと雰囲気が違います。わたしは大体2週間前に授業の準備を一応終えるようにしていますが、どんなに準備しても、当日上手くできるかは別問題です。
休み明けの大問題は声が出ないこと。元々発声のよくない私にとって、休み明けは辛い期間です。東京には周囲に憚らず大声を出せる場所が少なく不便です。
2学期から週1回、授業の始めに当番制で詩の朗読をさせる計画を立てています。これは同じ学年を担当している新人教師の提案によるものです。
自分の選んだ詩を感情を込めて読むというだけのことなのですが、音声言語としての表現力への関心を高めることが目的です。
なかなか面白い発想なので試してみたいと思います。若い人の考え方は大事にしたいです。
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