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2008年10月 6日 (月)

伊曾保物語のなんとも不思議な感覚―私の古典文学散歩(5)

 イソップ童話はだれでも一度は読んだ物語でしょう。古代ギリシャでその原型ができたという寓話集は、動物を主人公とする教訓的な話で有名です。実はこの話は戦国時代の末期にポルトガルの宣教師たちによってもたらされ、「伊曾保物語」として翻訳されています。キリスト教関係の図書が禁書になったあとも、本書はたびたび版行し、ユニークな挿絵とともにさまざまな版本が流通しました。いまは岩波文庫の一冊になっているので大変読みやすく、手に入れやすい一冊です。
 たとえば有名な肉を加えた犬の話はこんな調子です。(岩波文庫本をもとに一部表記を改めています)

 ある犬、肉をくわへて川を渡る。真中にて、その影、水に映りて大きに見えければ、「我がくわゆる所の肉より大きなる」と心得て、これを捨てて、かれを取らんとす。故に、二つながら、これを失ふ。
 その如く、重欲心の輩は、他の宝を羨み、事にふれて貪るほどに、すなはち天罰を蒙る。我が持つ所の宝をも、失ふ事あり。

 たしかに私たちの知っているあの話と同じです。古文で書かれると不思議な感じがしませんか。徒然草の一段のようにも読めてくるから不思議です。鎖国という文化的閉鎖のなかでこの話が生き残ったことは再評価されるべきでしょう。それにしても挿絵をみると西洋色は全くなし、見事なまでの日本化がなされているのは驚きです。

2008年4月23日 (水)

今物語のおもしろさ―私の古典文学散歩(4)

 『今物語』は藤原信実が編纂した中世説話集です。1998年に講談社学術文庫で三木紀人氏の全訳注が出版されたため、大変読みやすくなりました。念のためにいいますが『今昔物語集』とは別の作品です。
 編者の信実は13世紀ごろの人で、自ら勅撰集に多数歌を残す歌人であるとともに、三十六歌仙絵を描いた画家でもあったといいます。53の話からなりますが、歌の道に関心を持っていたためか、説話の大半は和歌に関する話です。たいていは「やさしき」(優美な)話であり、歌道の奥深さを物語るものが多いです。中世の貴族の歌に対する関心の高さをうかがい知ることができます。
 第18話はこんな話です。

 あの西行が伏見中納言の屋敷をたずね縁に座っていたところ、訳を知らぬ侍が不審に思ってにらみつける。西行は自作の歌を屋敷内の貴人に伝えようとするが、侍はその趣旨を理解できず、生意気だといって横っ面を張ってしまう。

 高名な歌人の災難ですが、歌の知識がない侍の無粋を責める内容になっています。
 そうかと思えば下卑た尾篭な話もあります。我慢できず放屁してしまった僧の話。それどころではない大失敗をした説教師の話など、哄笑性の高い話もあるのです。
 簡潔で分かりやすい内容なので私が何度も読み返す作品の一つです。

2008年3月11日 (火)

如意の渡りの弁慶・義経―私の古典文学散歩(3)

 歌舞伎の「勧進帳」は歌舞伎十八番の一つ。市川海老蔵・団十郎のお家芸として江戸時代から今に伝えられているものです。初演は天保11年(1840)です。これは源頼朝に追われて諸国を敗走する義経一行が加賀の安宅の関(現在の小松市)まで来たとき、関守の富樫左衛門に見咎められるのですが、それを弁慶が機転をきかせて関を突破するという話です。弁慶は自分らを消失した東大寺再建のために勧進の旅を行っている山伏となのります。富樫はそれならば勧進帳を読んでみよと命じるのですが、弁慶は手持ちの巻物をそれらしくしかも朗々と読み上げ、何とか関所を切り抜けようとします。ようやく成功したと思われたのですが、義経の正体がその風貌から見破られそうになります。窮地を迎えた弁慶は主人の義経を打ち据え、疑いを晴らすという内容です。歌舞伎ではそのディフォルメされたメイクや、飛び六方などの奇抜な演出が印象的です。
 この勧進帳は能の「安宅」を歌舞伎にしたものであり、室町時代の成立です。「安宅」では富樫の影が薄く、弁慶の機転が中心的な趣向になっています。歌舞伎「勧進帳」の富樫が単なる悪役から、義経であることを知っていながら人情から見逃すという好人物に変容するのも印象的です。
 さて、この話は中世に生まれた「義経記」にも描かれています。義経はその実人物の死後、かなり早い時点から伝説化され、尾ひれがついて語られた人物ですが、「義経記」は中世における義経伝説の集大成といった感があります。
 この「義経記」では、義経を打ちのめす場所は安宅ではなく、如意の渡りという場所になります。ここは現在、富山県高岡市伏木のことだと考えられ、現在でもその名の地名があり、渡し舟があります。さて、「義経記」では、次のような話になっています。

 義経一行が如意の渡りに着き、渡船を出してくれるように申し出ます。すると渡し守の平権守は、越中の守護から山伏が多数で来たならば報告するようにいわれているといって、船を出そうとしません。弁慶は私は有名な羽黒の讃岐坊だ、それを知らないのか。というとああ、知っていると言い出すものがいる。そこでそれなら渡してやろうということになります。
 ここからがユニークです。弁慶はこの中に義経と思われる者がいるか、そう思う者をあげて欲しいと申し出ます。すると当然言い当てられます。弁慶は憤怒の表情を浮かべて、「あれは加賀の白山から連れて来たものだ。あいつは所々で、人に怪しまれてしょうがない」と言って、浜辺に投げ捨て、扇でさんざんに打つことになります。そこで疑いを晴らし、船に乗り込みます。弁慶は船賃をただにする交渉にも成功し、渡河に成功するという話です。

 ここには勧進帳のエピソードがまったくありません。義経を打ち据えるきっかけにも違いがあります。「義経記」はストーリー上不完全な部分があり、矛盾や飛躍が多く見られます。ただ、それゆえに中世の義経伝説のあり方を考える上での重要な資料になっています。

2008年3月 5日 (水)

だまし討ちは許される? 古事記の英雄たち―私の古典文学散歩(2)

 古事記は日本書紀とともに神話と呼ばれる作品です。神話はファンタジーとは異なり、あくまでそこに述べられていることは真実であり、現在のさまざまな事実の理由説明になる規範であったと考えられます。
 古事記を読んでいて少々気になることがあります。それはだまし討ちをして敵を倒すことが繰り返し出てくることです。私たちは汚い勝ち方をすることには抵抗感があります。正々堂々と技や力で相手を圧倒することこそ、勝利の美学のように感じている方が多いでしょう。
 ところがどうでしょう、スサノオはヤマタノオロチを酩酊させて切り殺します。これはまだ許せるにしても神武天皇は遠征中に出会った異民族ヤソタケルを宴会に招待し、歌を合図に軍勢に攻撃させ一網打尽にします。ヤマトタケルは女装してクマソに近づき、出雲では友人になったふりをして相手を油断させて土豪を斬り殺します。応神天皇は即位前に、大山守命をおとりにおびき寄せ謀殺しています。反正天皇は、即位前にライバル墨江中王を倒すために、その舎人(従者)のソバカリに内応します。そして墨江中王を殺害させたあとにこのソバカリを宴会に招き、大杯に視界がさえぎられているころあいを計って斬首しています。
 このように、いわゆるだまし討ちが繰り返し述べられており、それに対して何の弁明もないことに私は非常に不思議に思います。もちろん現在とは倫理観が違うということが、簡単な説明でしょう。むしろ、謀略ができることが英雄の証だったともいえます。
 でも私はこうも考えるのです。きわめて史的信憑性が高いと考えられる天皇の時代以降も謀略は繰り返し語られます。こうした卑怯な方法は非難の対象にもなりかねません。しかし、神話をもってこうしたことは神代からあったことであり、英雄の条件だと語ることによって現在の為政者の一見無道と思われる方法も正当化されると考えたのではないでしょうか。神話は現在の規範と述べましたが、その意味で古事記は荒唐無稽の物語ではなく、きちんと政治的機能を持った聖典ということになります。

2008年2月29日 (金)

百人一首の天智天皇―私の古典文学散歩(1)

 百人一首の最初の一首は、

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ 天智天皇
 
です。この歌の典拠は『後撰集』です。ちなみに百人一首は鎌倉時代の初頭に藤原定家が勅撰集の中から百人の名歌を選んだものです。天智天皇は大化の改新で活躍した中大兄皇子のことであり、近江大津京を都にした古代の天皇です。この時代の作品といえば『万葉集』ですが、その中にはこの歌はありません。万葉集に天智天皇の作品として残るのは明日香の大和三山を題材にした「三山歌」と鏡女王に贈った歌の2組(4首)が残るだけで、「秋の田の」の歌はないのです。
 百人一首のこの歌に比較的近いのが、
 
 秋田刈る仮庵を作りわがをれば衣手寒く露そ置きにける(万葉集巻十、2174)

ですが、この歌は作者未詳の歌です。万葉歌のごつごつとした調子に比べると、百人一首が典拠とした『後撰集』の歌はずいぶん洗練された感じがします。
 さて百人一首の歌を読む限り、天智天皇は農民思いの名君のように思われます。かりほの庵とは刈った稲を一時保管しておく、仮説小屋のことで(つまり「刈り」と「仮」の掛詞)、農作業中の一こまを歌ったことになります。農繁期は家に帰らず田の近くで寝泊りすることもあったのかも知れません。仮説小屋の中で夜露に袖を濡らす農夫の寂寥感が漂う歌です。天皇は下々の暮らしを思いやってこの歌を作ったということになります。
 実際の天智天皇の人生を調べてみると、大化の改新以来、自らの敵となる存在を次々に抹殺してゆく野心家で、権謀術数をめぐらすなかなかの人物なのです。その弟、天武天皇もそうですが、古代史には数多くあった親族間の争いの勝者なのです。
 平安時代以降の人々にとって、天智天皇は今上天皇の直系の祖であり、過去の偉大な天子としての面影をもつ存在だったのでしょう。理想化された天皇の姿なのです。

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