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2011年7月17日 (日)

漢字が読める楽しさ

帰国子女の中には、漢字が十分に読めずに苦労している者がいます。そういう生徒にとっては日本語は話せるけれども読めない不思議な存在らしく、一種のバリアになっているようです。
それでも学習を続けているうちに急に分かってくることがあるらしく、その様子はまさに氷解という言葉が相応しいものです。満面の笑みとともに分かったというのです。
帰国子女の日本語支援の現場には国語教育の基礎があるようです。普段はカリキュラムをこなすことで精一杯ですが、この休みにはこの問題について考え直してみたいと思います。

2011年2月28日 (月)

先駆的な確信

 中学生に内田樹氏の『日本辺境論』の一部をとりあげて話しました。そのなかに日本人が他の国民に比べてもつすぐれた能力として、「先駆的に学習する意味を知る力」があるという話がありました。何かを学ぶとき、私たちは学習の意義や効果的な学習法を考えてから学ぶというイメージがありますが、実はそうではないのだそうです。学ぶ価値や実用性などを検討することなく、直感的に学ぶ必要性を考えて、すぐに学びの行為に移行することが出来ること。それこそが日本人が他国民とくらべて発達した能力だというのです。
 確かに学習は自分にとって必要だという理屈抜きの感覚が得られた時に熱中できます。逆に、これをやればいいことがある。例えば受験に有利だとか、金儲けできるとかいう話は意外にも学習動機にはなりにくい。たとえ始めても長続きしない気がします。
 筆者は日本人が学習内容の検討を飛ばして学習行動に移せるのは、日本にはその余裕がなかったから、つまり、日本が辺境だったからだといいます。辺境性については大いに論じることが必要ですが、この「先駆的に学習の重要性を知る力」の論については私は概ね賛成します。
 ようするに学習することに対する切実な思いが現代の日本人は欠けつつあるというのでしょう。

2010年12月27日 (月)

参加型というけれど

 国語の授業で一番大切なのは思考力の養成であるとはよく言われています。そして私もそう思います。しかし教育の現場に立ってみると実行するのはなかなか難しい。
 みんなで話し合ってみましょうといった展開にして生徒に意見を言わせるとそこそこの反応があることもあります。少しでも気のきいたことをいう生徒がいると、教員はついそれに満足してしまってまとめに入ってしまうことが多いのです。少なくとも私はそんなことが多い。
 しかしそこで発表される内容は多くは上澄みであり、本質に迫ることは少ない。かりに本質に迫る問題が出てくると、それを短い授業時間内で展開させていくことは難しいのです。だから、教員もつい「討論もどき」で終らせてしまおうとする。予定調和的展開なのです。
 私は参加型授業の位置づけを、生徒が参加意識をもち主体的に問題に当たったという印象を持たせるということ・・・もっとやさしくいえば、自分で考えたつもりにならせること・・・くらいに考えていました。一方通行で知識が素通りするよりはいいのかと。
 しかし、これからはもう少し上(?)を目指したいと思い試行錯誤しています。

2010年9月 2日 (木)

気になる「ちがくて」

 動詞「違う」に接続助詞「て」を接続すると文法どおりならば「違って」になります。違うはワ行五段活用動詞であり、「て」につくときは連用形になるので音便化した「違っ」という形になるのです。古典動詞ならばハ行四段活用となり、「違ひて」となります。
 ところが最近よく聞くのが「違くて」という形です。子どもことばかと思っていましたが、最近若い同僚がごく普通に話すのを耳にするようになりました。これは全国的によく見られる傾向のようです。
 「違う」+「て」が「違くて」になるメカニズムは、形容詞の活用との混同という説が一番納得しやすいでしょう。たとえば「大きい」+「て」は「大きくて」であり、「く」という活用語尾が入ります。「違う」を形容詞的に考えてみると確かに、「違くて」という語形ができることになります。
 そもそも動詞とは事物の動作・作用・状態・存在などについて用いられる言葉ですが、動作や作用などの動的な表現ならばともかく「違う」のような状態をあらわす動詞は、形容詞や形容動詞と共通する働きをもっているために混同が起きる可能性は十分にあるといえます。
 同様な現象はこのほかにはあまり見られません。「違う」に近接する意味を持つ「異なる」が「異なくて」という形で使われた例を知りません。ただし子どもことばでは「居る」に「て」をつけた「いくて」は聞いたことがありますが、固定的な用例とは思えません。
 日本語の変化と考えるべきか、誤用として糾すべきか。考えていかなくてはならない問題の一つです。
 

2010年8月17日 (火)

日本語との距離

 海外で小学校生活の大半をすごしてきた中学生に国語(日本語)を教える時に、さまざまな問題があります。
 まず、基本的に日本語のリテラシーが根本的に欠けていること。基本的な文字が書けません。それは漢字だけではなく、ひらがなやカタカナも含みます。それに対して音声言語としての日本語はかなり聞き取ることができるのです。しかし、日常あまりつかわない文章語は分からないので聞き取ることができません。日本語は同音異義語が大変多く、それらを漢字に当てて私たちは考えているのですが、識別するのに必要な漢字を知らないのですから、その意味で日本語の聞き取りはかなりハードルが高いのでしょう。
 多くの帰国子女は帰国後3年もすればかなり国語力がついてきます。読み書きに関しても基本的には困難ではなくなります。最後に残るのが、自分の意見を日本語の文脈に乗せて表現する難しさだと思います。日本語的な発想の展開と外国語のそれとは必ずしも一緒ではありません。
 もちろん例えば英語の場合なら、英語の文脈で日本語に直して物事を話していけばいいような気はするのですが、現実にはかなり違うようです。作文でも同じことが言えます。これを克服できるようにしないと、発言力や表現力の低下を招いてしまいます。
 私は帰国子女たちにとっての日本語との距離を適切な位置に置く手伝いをしているのです。

2008年12月10日 (水)

速読古文の計画

 辞書を引かずに古文をたくさん読めるようなテキストを作ろうと考えています。対象は中学生ですが、古文が苦手な高校生や社会人の再入門にも使えるテキストがいいと考えています。最初は短い文章で、場合によっては明治以降の擬古文でもいいと思っています。たくさん読んでいくうちに古文を読むことに対して抵抗感がなくなることを目標にしたいと考えています。いまテキストを集めています。できましたら、何らかの形で公開したいと思っています。

2008年8月19日 (火)

読書感想文で遊んでしまおう

 全国のこどもたちが夏休みで最もいやなものといったら宿題かもしれません。その中でも読書感想文は苦手な人が多いのでは。あんなのを書かせるから読書嫌いが増えるんだという批判も前々からあります。ですがこれが一向になくならないのは、やはりそれなりに意味があるからなのでしょう。私は国語の教員ですので休み明けにたくさんの感想文を読みます。自分で出題したのだからそんなことを決して言ってはならないのですが、概してつまらない仕事です。いやいや書いている文章をいやいや読むのですからこれほど非生産的なことはありません。

 そこで提案です。今年の読書感想文はぜひ書き手の方も楽しんで書いてみてください。すばらしい感想文が集まれば、その読み手である全国の教員たちの士気を高めることになりますのでこれは日本の教育のために貢献できるわけです。大げさですが。

 まず本を読まなければ話は始まりません。感想文を書くのには半日はかかるかもしれませんので、少なくとも8月30日までには一冊読んでおくこと。短編小説でもかまいません。それなら数時間で読めます。
 次にメモ用紙(でもなんでもいい)に次のように書いてみてください。

 (小説の場合)
 ●本のタイトル
 ●作者名
 ●最も感動した(印象に残った)場面
  もしくは疑問に思った場面
 ●注目した登場人物の性格・いわゆるキャラ(主人公だけでもいい)

 以上をメモしたら、次のように考えます。
 
 もし主人公(もしくは特定の登場人物)が自分だったらどのような行動をとるか。つまり一種のRPG(ロール・プレイング・ゲーム)です。小説では最後に恋人のために命をささげた主人公がいたとします。でも、それが自分なら、恋人も救い、自分も生きる道を探るとか、恋人はあきらめるとか自由に考えます。
 つまり登場人物と自分の生き方・考え方との比較をしてみるのです。大体違うはずです。小説はクライマックスを作るために極端な人物造形をするのが普通ですから。

 次に、主人公がどうして自分とは違う行動をとった(とらざるを得なかったのか)を考えます。貧乏だった。プライドが高かった。そういう時代だった。周りの人物との関係でそうなったなど、原因はいろいろあります。それを考えてみましょう。それらは自分と主人公との置かれている世界の違いを考えることになります。

 それらが考えられたら(メモや図示をしておくといいのですが、なくてもいいでしょう)、文章の設計図を立てます。

例えば、

①主人公はこういう場面で、こんな行動をした。(これは読者のためのサービスです、あらすじをすべて書かなくてもいい。)
②私だったらこういう行動をするだろう。
③それは、主人公のこういう考え方、あるいは周囲の環境によるのだろう。
④それは私の日常生活とこれだけちがう。
⑤主人公のような生き方を読書で体験したことに価値がある。

といった感じです。それぞれを一つの段落で書けばいいでしょう。あくまで主人公の立場・境遇になりきってその役を演じる気持ちで考えることが大切です。
 絶対にあらすじの紹介だけで終わることがないように。それが一番退屈な感想文です(正確には感想文ですらありません)。逆にいえばあらすじなんか書かなくてもいいです。感想文は自分の感想を書くのが趣旨ですから、自分のことを書かないのはそもそも問題外です。
 感想文は文学研究や書評とも位置づけが違います。それらは客観性が求められ、いろいろな反論に耐えるべきものである必要があります。対して感想文は自分の価値観で好き勝手に書けばいいのです。

 読書感想文というRPGを楽しんでください。そして新鮮な価値観を全国の教員たちにぶつけてみてください。これでお互いに楽しめます。

2008年5月22日 (木)

白象の微笑

 授業で宮澤賢治の「オツベルと象」を扱っています。オツベルに巧く言いくるめられ過酷な労働を強いられた白象は、森の象たちに助けてくれと手紙を書きます。手紙を読んだ象たちはオツベルをやっつけることを話し合い、本当にオツベルを殺してしまいました。救出された象はなぜか寂しそうに笑うのです。
 この結末の意味を生徒に考えさせています。苦役から解放された結末がなぜ寂しいのか。ハリウッド映画のラストシーンのようなあっけらかんとした結末でない理由を考えさせたいと思います。

2008年4月18日 (金)

漢字の教え方

 日本語にとって漢字はとても大切な要素です。漢字には音と意味の両方があり、一つの字に複数の読みがあります。それを一々覚えるのは大変です。
 でも一旦覚えてしまうといろいろな働きをしてくれます。たとえばフカギャクという音を聞いただけでは何のことか分からないことばでも、不可逆と書けば逆ができないというふうにある程度意味を特定することができそうです。
 私はこうした漢字の役割を最初に説明します。漢字を使う意味を認識して動機付けを行います。

2008年4月13日 (日)

国語の教科書の最初のページは漫画

 新学期が始まりました。身じろぎもせず授業を聞いている生徒を見ると、私も身がひきしまります。お喋りや落書きをするようでは困りますが、あまり緊張し過ぎも困ります。情報の受信だけではなく、自分で考える力を身につけさせたい。それが私の課題です。
 今回は、私の使う中学1年生の国語の教科書について書いておきます。B5サイズの大判で全ページカラー。図版も多く大変綺麗です。教材の本文のほかに注や付録も多く、学習の目的も明示するなど至れり尽くせりです。
 この教科書の最初のページ、つまり裏表紙はなんと漫画なのです。教員である私がいうのもなんですが、最近の教科書は変わっています。学力低下に結び付けて語るのは止したいと思います。この教科書を使ってどんな授業ができるか。それが私たちに課されたものなのです。
 授業の様子はこのブログでも書いてゆきたいと思います。何よりも自分のために。

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